数あるアルコールの中でも、特に愛飲したのがビールだった。彼が3回目の外遊ののち、西洋人の生活様式について綴った『西洋衣食住』という本には次のような記述がある。
「ビィール」と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し。
(「西洋衣食住」/『福澤諭吉全集』所収)
「胸膈を開く」とは「胸の内を明かす」の意で、つまり諭吉は、ビールが談論風発にふさわしい酒だと考えていたようだ。晩年の彼の自宅には常にビールが用意されており、知人が来ると大びんのビールが出されたという。ビールを片手に、議論に花を咲かせたのだろう。
福澤諭吉は、豊前国中津藩の下級藩士・福沢百助の子として生まれる。
中津は門閥制度のしがらみが強い土地だった。下級藩士はどれだけ才能があったとしても、上級藩士の子供にまで敬語を使わなければならないなど、旧態依然な慣習が色濃く残っていた。父・百助は、侍をしていても出世の道がないため、わが子を坊主にしようと真剣に考えていたほどだ。少年時代の諭吉は封建制の辛苦をさんざん味わった。郷土の封建制に対する反発が、のちに西洋の平等思想や実力主義を取り入れる彼の思想的背景の原点にあったのだろう。
そんな諭吉にとって、兄のすすめで門をたたいた大坂・適塾(適々斎塾)の自由闊達な雰囲気は、非常に居心地がよいものだった。
1855(安政2)年3月、22歳の諭吉が入門した適塾とは、蘭方医の大家・緒方洪庵が大坂に開いていた学塾で、全国から俊才が集っていた。門下生は3000人に及ぶともいわれ、長州藩の大村益次郎や福井藩の橋本左内など多くの人材を輩出した。塾内には上下の身分などなく、成績の良い者が講師を務めるシステムだった。
適塾では、蘭学を教えていたにもかかわらず、蘭和辞典はオランダ商館長だったドゥーフが編纂した『ドゥーフハルマ』1冊しかなく、塾生たちはこの辞書を奪い合い、または会読して使用したという。そんな「お堅い」環境における諭吉が勉強漬けの毎日を送っていたかというと、そうでもない。むしろこの時期には、彼の生涯でも最もといってよいほど酒を飲んでいる。仲間たちとともに、とにかく金銭の許す限り飲んだという。その飲みっぷりと食いっぷりのよさから、自ら「牛飲馬食ともいうべき男」と称している。しかし、学生であった彼らの懐に余裕はなく、「大坂に出てからずいぶん自由に飲むことは飲んだが、とかく銭に窮して思うようにゆかず」と『福翁自伝』の中で当時を述懐している。
ビールを通じた「ノミニケーション」
適塾で学んだのちに江戸へ出た諭吉は、中津藩中屋敷に居を構え蘭学塾を開く。この家塾がのちの慶應義塾の起源となる。この頃も「勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみ」にしていたという。
その後、1860(万延元)年から1867(慶応3)年のわずか8年間の間に3回も海外遊学を経験。1866(慶応2)年に発刊した『西洋事情』がベストセラーとなって以後は、近代思想の啓蒙家として活躍した。
生涯を通じてよく酒を飲んだ諭吉だが、一方で乱酔することを非常に嫌った。彼は自らを「品のよい大酒飲み」と自覚していたようだ。
(私は)大酒のくせに酒の上が決して悪くない。酔えばただ大きな声をしてしゃべるばかり、ついぞ人の気になるような嫌がるような根性の悪いことを言ってけんかをしたこともなければ、上戸本性まじめになって議論したこともないから、人にじゃまにされない。
(「福翁自伝」/『福澤諭吉選集』所収)
30代中頃には、健康上の理由から節酒に励み、「とうとう酒欲を征伐して勝利を得た」と宣言するに至るが、それでも来客時のテーブルからビールびんや徳利がなくなることはなかったという。
この偉大なる思想家は、酒そのものを愛するとともに、アルコールを通じた友人・知人とのコミュニケーションを生涯大切にしたのであった。